SENRYU REVIEW

それいゆるうぺ

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八百屋が売っている二物衝撃

千春『てとてと』

いわば「八百屋」と「二物衝撃」の二物衝撃である。だが、そうしたメタ的な面白味がこの句の本領なのではない。

「八百屋」と「二物衝撃」はあくまで言葉の次元で組み合わされている。二者は意味としてつながっているわけではなく(たとえば「二物衝撃」を野菜の一種として解するような仕方で)、現実の事物としてつながっているわけでもない(たとえば「二物衝撃」が実体化して置物のように八百屋で売られている、と受け取るような仕方で)。この二者は、あくまで文字面の上で、ぶっきらぼうに併置されている。

もし、掲出句を書き換えて〈八百屋で売っている二物衝撃〉とすれば、これはモノの配置の川柳となる。八百屋があり、その中で「二物衝撃」が販売されているとしてみよう──そういう指示として句ははたらく。まっさらな部屋に家具を配置するように一つの世界が描き出される。そこでは「二物衝撃」は作者の自由にできる手駒だ。

これに反して「八百屋が」という語り出しは、その時点で「八百屋」を語り手のコントロール外に置いている。八百屋が何を売るかは八百屋が決める問題で、作者は関知しえず予想もできない。これは言葉による箱庭を設えて読者に開放している句ではなく、八百屋で二物衝撃が売られていて驚いている作者の句なのだ。

それにしても、二物衝撃という語は唐突に句中に連れてこられたかのように見える。これは言葉への無関心のなせるわざというよりも、むしろこの語に対する作者の違和感・距離感が〈飛躍〉として句に刻み込まれている、それを私たち読者は目の当たりにしているということではないかと思う。純粋な二物衝撃句の枠を超えた読み応えがここにはある。

『てとてと』(私家本工房、2020年)収録句。