オルガンとすすきになって殴りあう
石部明(『はじめまして現代川柳』所収)
マラルメは「書物、精神の楽器」で、文学が要求する〈書物〉(仰仰しい!)を「文学によって要求された複雑な組織体l’organisme」と呼んでいた。組織体(有機体)organismeは、例えば器官organe、オルガンorganeともにギリシア語ὄργανον=道具・器具に遡る。マラルメの「組織体」には、異なる部分がそれぞれ一つの働きをもち、それらが関係することで全体が作動する、という含意がある。つまりは、ある種の有機的な美しさ。マラルメの書物は、各ページに文・語が均一に並ぶものではなく、位置やフォントサイズが様々に構成され、それを読むことは「鍵盤上の楽曲のそれにも似た」演奏となり、読者の自発性が「寸断されている記譜法をつなぎ合わ」し、「一つの孤独な無言の音楽会」が精神のうちに成立するのだ、等と言っていた。
この構造が定型詩についてもっとも明瞭な形をとるのが、「詩の危機」のオルガンであった。マラルメはアレクサンドラン(要するに十二の音に合わせていく定型詩だ)をめぐる伝統的韻律を「数百年を閲しその潜在する鍵盤を押せば忽ち正統性が高らかに奏で出される巨大なパイプオルガンgrandes orgues」と喩えていた。オルガン。オルガンという機械においては鍵盤と管の対応がすでに存在している。見た目はどこか臓器のようで、だから〈オルガン〉と習慣として呼ばれることになったのだ。(多行の)定型詩が一行が書かれるたびに数世紀にわたって蓄積された韻律の記憶が同時に作動するだろう。これが「潜在する鍵盤」であり、それによって鳴るものが「正統性」である。定型詩における〈オルガン〉とは、国語の内部に歴史的に蓄積された、詩を鳴らすための関係の体系である。マラルメは、定型詩の危機のフランスにおいて、各人が「自分自身の個性ある奏法と聴覚」によって「一つの楽器を自分用に作り上げることが可能となった」と分析していた。
あるいはミサが論じられる「同題」(=カトリシズム)。オルガンの構造は空間の中に展開される。群衆の声、神話的現存を指し示して退く司祭、そしてオルガン……。「三つの要素があり、それらは互いに関係し合っている」。群衆の声は個々の身体から発して聖堂上方へ収斂し、司祭は自らを前景化せず、不可視の中心を指し示す。オルガンは「聖堂の入口のところに追いやられて、それは外部を表現」する。「外部」とは、聖堂の壁の外に広がる闇、すなわち内部の秩序にはまだ収められていない世界だ。オルガンはその外部を振動へ変え、聖堂の内部へ流し込む。それによって有限な建築空間は「宇宙全体にまで」深まり、「その場所を〈オルガン〉の振動によって無限にまで押し拡げる」。 諸々のものは異なる位置にありつつ、その差異を保ったまま相互に関係させ、もとの聖堂にはなかった一つの場を発生させるのがオルガンの振動だ。諸々の管が鍵盤を介して一台の楽器として鳴るように。語、頁、余白、読者、あるいは声、群衆、建築といった異質な要素が関係づけられたときに一つの全体を発生させるように。定型詩ではその仕組みが巨大なオルガンであり、他方、文学では、書物や読者を含めてそのつど作動する有機体なのだ、と。
──《オルガンとすすきになって殴りあう/石部明》──
この句について樋口由紀子は「「オルガン」も「すすき」も比喩として私は読まない」と評していた(ウラハイ = 裏「週刊俳句」)。「勝負にならない」。それでも「になって」しまい、殴りあうほかない……。 柳本々々は少し違う角度からこの二語を「任意」と呼ぶ。「このオルガンとすすきが、オルガンとすすきである必然的な意味はない」(およそ日刊「俳句新空間」)。二語の意味を解読することより、「〈任意〉が暴力として発動してしまっている」状況そのものなのだと柳本は主張する。いずれも現代川柳としてこの句を大好きなササキリも納得なのだが、今日はオルガンについて踏み込んでみた。
オルガンとは臓器であり器官であり、あるいは定型詩における定型そのものでもあった、少なくとも定型詩の危機の時代に思考を束ねたマラルメにとっては。オルガンは巨大で重い伝統であり、荘厳なミサを司っていた。反対側にすすきが一本立っている。
片方は動かすだけでも大仕事で、片方は風が吹けば曲がるだろう(そしてまた片方は、吹けば鳴るだろう)。無数の管があり、一本の茎がある。オルガンは室内に据えられ、すすきは野に生える。硬いカタカナの外来語と(冒頭から長々と紹介したように、この語はとにかくゴツい)、「すすき」という柔らかく反復するひらがな。一方は風を組織し、一方は風に従う。「殴りあう」の「あう」が、この重量差のあるボクシングをあっさり対等な勝負にするだろう。
「になって」。柳本はこの句を「「オルガン」と「すすき」という異者同士になって」自分自身と殴りあう像へ繋いでもいた。私にも完全に同じ光景が訪れている。一つだったものがオルガンになり同時にすすきにもなる。なぜ人間(人間なのかも解らない)がオルガンとすすきに分裂できるのかは解らないのだが、この感じをただ単に解らないと呼んでみているだけであって、実のところそれは美しく、だから、私は気分がいい。まったく異質な物へ分裂し、「殴りあう」という操作が、五・七・五の中でいとも容易く遂行される。マラルメは文学の書物を「複雑な組織体」と呼び、異なる断片が関係することで全体が作動するものとして考えていた。だが、そのような複雑なものを、この快を成り立たせるために、川柳は必要としないのだ。いくばくかの納得感というか達成感。オルガン、つまり「韻律で御坐い!」などと見栄をきった定型の歴史、あるいは荘厳な典礼、あるいは重たいパンチ……に比べて、すすきはあまりにも軽く、あまりにも遠い。それでも川柳の中では、オルガンとまったく同じ資格で、すすきになれてしまうし、また分身することもできてしまう。
だからパンチドランカーは、いま自分がボクシングをしていることすら知らないまま、かつて習得したステップを確かな足取りで正確に刻みながら、シャドーイングをするだろう。殴っているのか、殴られているのかもわからない……五・七・五だけがなぜか……「潜在する鍵盤」に託されたものはこのようなあくまでそうしているワケも「知らない」ということだったのかもしれない。そう思わないかい?