SENRYU REVIEW

それいゆるうぺ

「蜂」会員による一句評を掲載しています。毎日更新。

踏切になれたら川を浮かびたい

嘔吐彗星「石田柊馬R.I.P川柳群作「NO KNIFE NO LIFE」」

 「ホーンテッドマンション」に顕著なように、現象には、その主体を明示したくないという場合がある。取り憑く(haunt)のが誰なのかを言いたくないからだ。幽霊、と言うのは怖いから。hauntは受動態の形で頻出し、byが続くことが少ないのだ、あくまで受験英語の世界では。などということを教わったことがある。
 住み着くこと、落ち着くこと。住む場所に、憑くものが住みつく。haunt とは、ただ一度現れることではなく、ある場所に繰り返し訪れることだ。Google Mapさえもがそう教える。
 に、はこうして、存在の場所を表すけれども、を、は移動の場所を表してしまう。だから踏切を必要とする。
 「に」はこうして存在の場所を表す。川に浮かぶ、と言えば、浮かぶものは川のある一点にとどまる。これに対して「を」は移動の場所を表す。川を浮かぶ、と言ったとき、川は存在の場所ではなく、通過してゆく経路になる。だから、この句には踏切が必要なのだ。
 踏切という光景は「に」の存在であるけれども、踏切が扱っているのは、つねに「を」の運動だ。電車が線路を走り、人が踏切を渡り、道が線路を横切る。踏切は自分では動かないまま、他者の移動を許したり、止めたりしている。
 (その踏切に「川を浮かびたい」という欲望をあてがう(誰が?)。いやあ、随分と長いあいだ、皆さんの通過を管理してきたわけですが、今度は私も通過してみようと思います。渡るわけでも跨ぐわけでもありません。流れに身を預けながら、ではなく、預けるのです。ながら、なにをするわけでもありません。)
 嘔吐彗星のこの句は、題詠であり、題は「どんなに切れるナイフでも切れないこの深い川/西脇祥貴」という句だ。石田柊馬が亡くなった。有名な「水平線ですかナイフの傷ですか」という句を作った石田柊馬が亡くなった。これに応じて書かれた嘔吐彗星の「石田柊馬R.I.P川柳群作「NO KNIFE NO LIFE」」から引いてきた句だ。
 ナイフは物を切るが、踏切は交通を切る。現代川柳における〈切断〉と呼ぶべきであるような技法は、実は、ナイフよりも踏切の機能に近いと思う。ナイフが切ることができる場所の小ささと、川の深さや水平線とのスケール差。ナイフが扱うものが小さく在ることしかできないという限界。だから嘔吐の句は、川も切断も、題句から与えられた問題に対して反応している。
  題「どんなに切れるナイフでも切れないこの深い川/西脇祥貴」

  踏切になれたら川を浮かびたい

  haunted by
  階段になれたら虹を流れたい/平岡直子 

 さらに、平岡直子の句に憑かれたのだとも書かれている。刺激された(inspired)のではない。嘔吐彗星のこの句は「階段になれたら虹を流れたい」という刺激に対する反応なのではなく、その場所を合意なく、共同所有している。
 そうだね、現代川柳における〈切断〉と呼ぶべきであるような技法は、実は、ナイフよりも階段の機能に近いと思う。同じ次元でなく、別の次元への移動。レイアウトに階段を導入してやることは是非とも必要だと思う。それでもなお同じ表面の傍で、同じ世界に繋ぎとめておくこと。
 詩語、自然、美、日本語。
 放っておけば、虹に溶融してしまう。だから、階段が是非とも置かれるべきだ。階段の段差は、虹への滑らかな同化を拒む。虹を流れるという夢のなかに、硬いものを残す。
 嘔吐の句は浮かぶという仕方で切り抜ける。そして、川を流れるということから、浮かぶということを剥離する。平岡句の「流れたい」に憑かれながら、流れそのものになることを拒んでいる。それは、階段と同じことだ。それは、西脇句の「川」と嘔吐句の「川」とが同じであること以上に、同じことだ。