SENRYU REVIEW

それいゆるうぺ

「蜂」会員による一句評を掲載しています。毎日更新。

死の犬と死んだ犬とのマッチ棒

nes「マニエリスム」

nesさんは詩歌トライアスロンの同期受賞者であり、受賞記念企画として、自由詩、短歌、俳句/川柳を1年間にわたって同時期に連載してきた。互いの作品は毎回同じタイミングで公開されてきたため、半ば競詠のような緊張感と楽しさがあった。今回は、6月の最終回から一句を引く。

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この句の鍵となるのは「死の犬」と「死んだ犬」との対比だが、死の犬とは一体何を指すのだろうか。

「死の○○」で思い浮かぶものといえば、「死の灰」や「死の商人」、「死の行進」などがある。ここで注目したいのは、これらの用法においては、○○自体が死ぬのではなく、○○が別の対象に死をもたらすものとして用いられている点だ。

この用法に照らすと、「死の犬」とは(なにかに)死をもたらす犬であり、不吉な犬、あるいは猟犬なども捉え方によっては死の犬と形容できるかもしれない。

つまりこの句では、他者に死をもたらす犬と、死んだ犬(死をもたらされた犬、ともいえるだろうか)との対比が演出されているのだと言えるだろう。

 

ただ、今回はすこし違った読みを提示したい。中世ヨーロッパの美術モチーフに「死の舞踏」というものがある。死は身分や貧富を問わずすべての人間に平等に訪れるという死生観を表したものであり、有名な絵画には、骸骨と人間とが交互に手を取り合って輪舞しているものがある。人間側は教皇や聖職者、兵士、道化などあらゆる立場で描かれているが、骸骨の格好はどれも一様で、ある意味では死そのものが骸骨の形を取って踊っているようにも見える。

このとき「死の舞踏」は、死をもたらす踊りではなく、死そのものが踊っているという意味合いの方が強いと考えられる。この構図をそのまま掲句に持ち込むのであれば、「死の犬」を「死そのものが犬をしている(犬という状態をしている)」と捉えることも無理筋とまでは言えないだろう。

このように考えるとき、犬が意志動詞(犬という状態をする)として拡張されるとともに、死もまた意志動詞(死という状態をする)として拡張されることになる。そのような文法的破格を私はどうしても信じてみたくなる。

 

すこし話は逸れるが、私には「200年生きる」という抱負があり、それゆえに生きることについてずっと考えている。(抱負、というと願望的なニュアンスが強すぎるかもしれないが、どちらかというと「そうでありたいし、当然そうなるはずだ」という確信に近いかもしれない)

生を考え続けることは死を考えることと表裏一体であり、必然的に死を題材とする作品が多くなってしまう。ただ、短詩型において死を扱うことに抵抗を感じる向きも多いらしく、「そう何度も死を詠むものではない」とお叱りをいただくこともあるが、生と死が陸続きである以上、死もまた日常の一部として自然体で受け止めるべきだと考えている。私自身も死をこれ以上なく恐れているが、だからといって死を遠ざけて特別視してしまうことは、かえって今ある生に対する認識を歪めてしまうのではないかと思う。

この句をどうしても取り上げたかったのには、そうした背景もあった。

 

さて、「死の舞踏」を下敷きにした解釈――つまり、「死が犬(という状態)をしている」と「犬が死をしている」という対比構造――の上で、「マッチ棒」がどのような含意を持つのか考えたくなる。

それを考えるにあたって、そもそもマッチ棒にとっての死はいつなのか、という問いを考えたい。私たちは簡単に、「擦られた瞬間(あるいは燃え尽きたその瞬間)」をマッチ棒の死と定義づけたくなる。確かにそれも一面としてはそうだろう。ただ、マッチ棒は仏壇の引き出しのなかで湿気ってしまい、マッチ棒としての役割を果たせないまま捨てられることだってある。それもマッチ棒の死と呼べるのではないだろうか。こう考えていくと、マッチ棒の死の瞬間を克明に捉えることはなかなか難しいように思えてくる。

 

果たしてマッチ棒に「死」という状態はあるのだろうか。そもそもマッチ棒は人間の役に立つために作り出された存在である。先ほど挙げた二つの場合においても、「火を点ける/擦られる」ことを起点として、役に立つ前/役に立てなくなった後という二つの状態があるのみである。この二つを生死と呼べないのは、あいだに生がないからだ。生きていないものは死ぬこともできない。このように考えていくと、マッチ棒ないし広義の道具に死という状態がない、というごく当たり前の結論に行きつく。

 

翻って、「死の犬」と「死んだ犬」はどうだろうか。ラディカルに考えることを許されるならば、犬もまた他者の役に立つために産み落とされた存在である。狩りを目的としたり、あるいは愛玩用であったりと用途はさまざまかもしれないが、その出自においてはマッチ棒とほとんど変わらない。ただ、唯一異なるのは犬が生き死にを持つ動物であるということだ。犬は道具的でありながら、道具が持ちえないはずの生死を持ち合わせている点で、道具とは性質を異にしている。そしてその犬が「死」という状態をしており、「死」そのものもまた犬という道具的存在の姿を取っている。

このとき、「死をしている道具」と「道具をしている死」と言い換えられ、それらがマッチ棒の軸木と頭薬のように組み合わさって「死なない道具」になろうとしている、というメタファーとしてこの句を捉えることができるのではないだろうか。死を持つ生物である犬と、死そのものとが、互いに「死なない存在」になることを渇望している、とも言えるかもしれない。

 

さて、私は200年生きると決めているが、それは「犬」や「死」たちが望むような不死の形とは大きく異なる。マッチ棒は生という状態を持たないがゆえに死という状態も持たない、不生不死の存在である。それも確かに死を遠ざける方法の一つではあるが、私は死を遠ざけたいのではなく、あくまでも生きて200年を過ごしたい。

生きることは死と不可分である。そのぎりぎりの狭間を、私は今日も生きる。