五十歳でしたつづいて天気予報
杉野草兵(青森川柳社編『青森県川柳合同句集 第2集』、青森川柳社、1988年)
小説家・原田宗典の代表作『十七歳だった!』のことが、「五十歳でした」と呼応して響き合うとき、「十七歳」には回想するべきことが誰しもあるとして、「五十歳」という年齢が回想され、回想されるなにかがあるということに、まず強い驚きがある。
たとえば岡井隆が、
「壮年。実はそんなものはありゃしない。わたしたちは、いつまでも青年のつもりでいる。そして、いつのまにか老年期に入っているのに気付く。壮年の語は、一種欺瞞的なまで浪漫的である」(『辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート』、人文書院、30頁、1973年)
と書いたことを考えると、いったい何歳のときに五十歳のことを回想し、五十歳のなにを回想したのだろう、とおもったりする。しかし、有無を言わさない「五十歳でした」という語りが語り手の個性を印象づける。十七歳だった、ときにも様々なことはあり、また別の様々なことが、書かれてはいないけど、五十歳だった壮年のわたしにもあった、ということなのか。
中年のお知らせですと葉書くる
/丸山進(『アルバトロス』、風媒社、2005年)
「五十歳」という唐突さは、この丸山進の句の「葉書」に似ている。
あるいは本来、回想されるべき十七歳が、国家総動員的に子どもも大人も戦争に巻き込まれる場合、若い時代に青春を持てなかったということがある。これは作家論的なはなしになるだろうが、実際、1920年代前半に生を享けた安岡章太郎や吉行淳之介ら第三の新人と呼ばれる世代の小説家は、この経験が作品に影を落としているように、わたしは感じる。そのような背景があるとき、語り手に回想されるのは、「五十歳」という遅れてきた青年時代にちがいない。回想されるべき十七歳は、本来くらい影をもつものだが、戦争という強烈な光が個人個人のもつ影を頭上から消してしまった、ということだ。
作者の杉野草兵は1937年生、2007年没。高田寄生木とともに「川柳界の芥川賞」と呼ばれた「川柳Z賞」の創設者であり、おかじょうき川柳社主催の賞に名をのこす川柳作家・杉野土佐一を父に持つが、さてどうでしょうか。
杉野の句には「五十歳でした」という声Aがあり、一方で「つづいて天気予報」というニュースキャスターをおもわせる声Bが共存している。句を定型に沿って読むとき、
(A)五十歳/でした(B)つづいて/天気予報
となり、始句結句の名詞に挟まれた中七において、その声がシームレスに入れ替わる。そのことに気づくのは、結句の「天気予報」を読んだ最後の瞬間であり、「五十歳でしたつづいて」までは、ただ得体の知れないだれかひとりの声で再生されている。樋口由紀子は『金曜日の川柳』(左右社、2020年)のなかで、句の全体を訃報を伝えるニュースキャスターの発声と捉えているが、わたしは違う読みをしている。樋口の読みは、おそらく、この句をいちど最後まで読み、「天気予報」という最後の名詞から逆算して、改めて句をあたまから点検しなおす、二周目の読解とでも言うべき方法が採用されているとおもう。わたしはこの句を初めて読んだときの驚きがいまだに失わない。つまり、「五十歳でしたつづいて」と再生されていた人物の声が、「天気予報」の登場によって完全に消えてしまうことがない。というか、わたしにとってこの杉野の句は、意味内容以前にその声変わりのあり方に初読の驚きがあり、それを無視するわけにはいかない、ということなのだ。
しかし、声のもつ温度感がちがう、とおもう。テレビかラジオから流れる声Bは、淡々として事務的に乾いているが、声Aは回想の湿度によって濡れている。これはあるいは、発話されない心の声のようなものだろうか、しかしどちらにせよ、声Aは絶唱という感じがする。実際に声に出していなくても、こころの中では重く呟かれているような。わたしはこういうとき、老人のほうが大きい声を出すとおもっている。
杉野のこの句を読んだときに覚えるのは、声Aのような個人の強いおもいを描きだす発話が、声Bの機械音声めいた声によって漂白される感覚である。どれだけ想いを込めて発言しようと、テレビやラジオから流れる音声と並置され、塗り替えられる。それは、人間の悲劇のようでもあるが、一方で、伝えたいとおもうことが無視されても良い、というようなことは、救いのようにも感じる。杉野の時代には私小説的な文学風土から、多くの「おもい」が語られる川柳が作られたはずだが、この句はどのように受け止められたのだろう。このねじれたような句の磁場が、一読して忘れられなかった。
死は今も突然に来る 真綿雲
自画像や銘無き茶碗髭を剃る
絵ローソクされば一夜を泣き細る
青森川柳社編『青森県川柳合同句集 第2集』(青森川柳社、1988年)より