ラップごしだから戦争はなめらか
倉本朝世『硝子を運ぶ』(1997年、詩遊社)
倉本朝世『硝子を運ぶ』は〈窮屈〉な句集だった。
蝶を詰め込んで苦しむ夏銀河
フラスコがあまたふれあう胎内区
おかずに囲まれて窮屈な家族
口あけて模型の谷へ墜ちていく
いずれの句もその〈窮屈〉さにあえでいる。蝶やフラスコ、家族たちは互いの息遣いが聞こえそうなほど近く、狭くそして逃げ場がない。『硝子を運ぶ』では容器や囲いのイメージを通じて、家庭や婚姻、社会の閉塞感が何度も描かれる。四句目に至っては、そうした小さく閉じられた世界へと転落するときの叫びのようだ。
また、句における視線は内側から外側へと移動している。たとえば、三句目は〈窮屈〉といった内側の感覚から、弁当箱のように〈家族〉を上から眺める視点に切り替わる。語順によって、カメラの視点がズームバックされている。
一方で、掲題句の場合、〈戦争〉は最初から俯瞰され、〈ラップ〉に覆われるものである。その様子は手元で小さく見えながらも、あくまで自分から隔てられたものとして描かれている。この感覚は新聞やテレビ、現在ならSNSで国際情勢の報道を眺める経験と重なるだろう。句において内側の〈窮屈〉さは感じられない。あくまで、〈戦争〉は〈なめらか〉だと言っているに過ぎない。
興味深いのは〈ラップ〉が、かつて軍需品だったものの典型例として知られていることである。ポリ塩化ビニリデンという合成樹脂は二十世紀に開発され、戦地の米軍に活用された過去をもつ。終戦後、食品包装材として商品化され、〈ラップ〉は現在も家庭で用いられている。句に戻ると〈戦争〉と日常の境界面は、かつて軍需品だったこの〈ラップ〉一枚きりしかないことになる。
〈ラップごしだから〉〈なめらか〉。〈戦争〉が〈ラップ〉で隔てられていることを思えば、不思議な因果関係だ。しかし、その膜は薄く、こころもとない。むしろ、〈ラップごしだから〉こそ〈戦争〉とシームレスと言うべきかもしれない。戦火と離れた日常の生活を送るからこそ〈戦争〉と結びついてしまう。事実、〈戦争〉の影響(もしくは、利益)を受けない/与えないでいられる人間はいない。〈戦争〉は〈なめらか〉なのだ。