フーダニットの針が挿さってゆく水風船
川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』(書肆侃侃房、2025年)
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薄く張った膜へ針先が入りその向こうには水があり、もう少し進めば割れそうである。膜が裂け水が一度に外へ出るところまでほとんど見えてしまう。
この句は、川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』の第一章「モルグ街の殺人」の一句目に置かれている。その章には、エドガー・アラン・ポーの「げんに独創性というのはたえず空想的なもので、真に優れた想像力というのは分析的なものにほかならないということが、やがて判明するだろう」という「モルグ街の殺人」からの文章が銘文として引用される。
水風船が割れるところまで見えたが、これは「見たまま」ではなく、むしろ見間違いに近いだろう。水風船はまだ割れていないし、水も流れ出ていない。だが破裂まで見えてしまう。水風船と針について身体がすでに知っていることが作図をするからだ。恣意的な見間違いではないと思う。そう見間違えるためのコードがここにあるはずだ。針はさす。水風船は割れて縮小し、水が溢れる。見えている現在が既知の運動によって未来へ延長される。ドゥルーズが『シネマ2』でクリシェ=紋切り型を、単なる陳腐な像ではなく事物の「感覚運動的イメージ」として捉えていたことが思い出される(「一つの紋切り型、それは事物の感覚運動的なイメージである」(邦訳27頁)、「知覚は習慣的運動へと延長され、運動は知覚から有用な結果を引き出そうとして知覚を延長する。それは感覚運動的な再認であり、とりわけ運動によってなされる。つまり運動メカニズムの構成と蓄積が開始されるには、対象が見えるだけで十分である」(邦訳60頁))。われわれは物をぜんぶ知覚するのではなく、それをどう扱うか、そこから何が起こるかに必要な部分だけを見る。だから往々にして知覚そのものがクリシェ=紋切り型を含んでいると、さしあたり言うことができるだろう。水風船を見た瞬間に破裂まで見えるのは、見すぎたからであると同時に、目を逸らしすぎたからでもある。破裂という未来を余分に見たかわりに、まだ張っている膜、膜の内側から押している水、針の細い胴、針が膜を通過している途中を、ほとんど見ていない。
「フーダニット」も、別の仕方でほとんど同じことをする。Who did it? は問いだが、whodunit はその問いを反復する物語の種類の名前でもある。「誰が犯人か?」という謎解きに重きを置いた推理小説(それをポーのモルグ街の殺人は、犯人がオランウータンであるという仕方で躱す)。問いがジャンル名になり、ジャンルである以上、答えをまだ知らなくても何を問題にすればよいかはかなりの部分が明瞭となる。出来事があれば事件の断片として読み(これはトートロジーだろうか)、物があれば痕跡として読み、痕跡を人物へ結び、最後には「誰?」へ向かってゆく。だから「フーダニット」は犯人という答えを持ち込むのではなく、出来事を犯人へ向かわせる読み方を持ち込む。〈針、穿孔、破裂、水の流出〉と、〈事件、痕跡、誰?、解決〉という二つの系列が、ほとんど同じ速度で走っている。水風船が割れて水が出ることと、フーダニットが解決することは、類似した仕方で、相互に認識を強化しあうだろう。
再び文字へ戻ってみよう。「刺さってゆく」ではなく「挿さってゆく」。水風船がまだ割れないところまで像を持ち堪えさせたときはじめて「挿」が文字どおりに働き始める。針は傷を作る一点であるだけでなく、内部へ入ってゆく一本の線になる。「てゆく」が、その線に時間を与える。針はすでに膜へ入っている。しかし、今度は割れてはいないだろう。ここで破裂が単に延期されているのではない。針が挿さったまま割れないなら、水風船は別の形になってゆく。
針が薄い膜を貫き、その周囲の膜は窪んだように変形する。針に押され、針の表面へ沿って突っ張った膜は針を取り囲む。膜の孔の空虚をむしろ針が塞いでいる。水風船の内と外はまだ完全には通じておらず水もまだ出ていない。膜の局所的な開口を外部から来た線が満たしている。いまや異なる光景が広がっている。膜が水によって内側から張られ、その膜を一本の線が外から内へ横切り、その線を含んだまま全体がまだ保たれている。閉じた球が凹み、線が挿入されている。線は球を壊さず、球も線を完全には取り込まない。しばらくのあいだ、二つで一つの形を作っている。しかも、その一本の線はただの針ではなく、「フーダニットの針」と呼ばれているらしい。物理的な外部が内部へ入ると同時に、「誰?」という問いの形式までが一本の線をもって世界の内部へ入り込んでいる。
誰? を含んでしまった世界とはどんな形をしているのか?
水風船を描写する欲望に駆られる。水はむしろ、外へ出るべき中身ではなくすでに表面を作っている力である。水は膜の奥に隠れているのに、膜の張りとして最初から外へ作用している。隠れているものが、見えている形をすでに作っている。表面がどう張っているか、どこで歪んでいるか、どの一点に力が集中しているかを読むことで、内部がすでに外部へ及ぼしている作用を読むことができる。水風船はテクストではない。テクストもまた、中に意味という液体があり、解釈が膜を破ってそれを取り出す容器ではないわけだが。水風船はテクストに似ている。意味は、語順、音、助詞、漢字とは別に内側へ収められているのではなく、それらが互いを押し、引き、結びつけることで、すでに句面の形として現れている。そして読むことが、その表面へさらに一本の線を通す。針は布に孔を穿つが孔を切り裂くためだけの道具ではない。糸を運び、離れた箇所を結び直す。穿つことと縫うこと。
ポーの分析的な想像力。銘文の「モルグ街の殺人」を丁寧に見ていこう。
デュパンは、警察とは別の何かを超人的に見つけるのではない。「モルグ街の殺人」の窓の仕掛け。母娘が殺害された惨劇のあった部屋の奥には二つの窓があり、どちらも内側から固く閉ざされている。一方の窓には太い釘が頭近くまで打ち込まれ、もう一方にも同じような釘が見える。窓枠を持ち上げようとしても動かない。警察はそこで、窓からの出入りは不可能だと判断し、わざわざ釘を抜いて窓を開ける必要さえないと考えた。ここで警察が見ているもの自体は間違っていない。窓は閉まっている。釘も見える。しかし、〈釘が見える→窓は釘によって固定されている→ここから出ることはできない〉という運動が、知覚のうちですでに完了している。デュパンは反対に、まず「犯人は物質的に逃げた」のだから、他の出口がない以上、窓から出たはずだと考える。したがって、窓からの脱出が不可能に見えることは、その推論を棄てる理由ではなく、まさにその不可能らしさがどのように作られているかを調べる理由でしかない。デュパンは見かけ上の不可能を、本当に不可能なものとして受け取らない。まず一方の窓の釘を抜くと、窓枠には隠されたバネがあり、それ自体が窓を閉じた状態に固定できることが分かる。外へ出た者が窓を閉めれば、バネは自動的に掛かる。しかし抜いた釘を外側から元へ戻すことはできない。そこでデュパンの注意は、もう一方の窓の「同じように見える釘」へ向く。二つの窓に同じバネがあるなら、差は釘そのもの、あるいは釘の固定のされ方にあるはずだから。二本目の釘は、見たところ一方の釘とまったく同じで、頭近くまで打ち込まれている、「そう、頭までしっかりと」(新潮文庫の50頁)。デュパンが釘に触れると、頭と軸の四分の一インチほどが指の中でぽろりと外れる。残りの軸は穴の中に残っている。釘は以前から折れていたのである。折れ目には錆がつき、頭側の断片は窓枠の窪みにうまく嵌まり込んでいる。窓を閉じれば、「この釘は完全な一本の釘にしか見えなかったよ」(51頁)。
分析とは、隠れたものを発見することだけではない。何があると見え、何がないとされたか、それ自体を模様替えしてやり、その結果として同じ現場に別の通路を作ることを含むだろう。
見えている釘が、完全な釘に見えすぎること。警察が表面しか見なかったことが問題なのではない。その表面を一つの機能へ早く結びつけすぎたのだろう。釘という形を見た瞬間に〈これは窓を固定している〉という働きまで見てしまう。だが「一本の釘」は、折れた軸と外れた頭部が一つの外観を作っていただけだった。
同じ釘をもう一度触ること。一本に見えた釘が、触れられた瞬間に二つになる。固定しているように見えた釘が実は固定していなかった。同じことだが、分析とは、見えている物を、それについてすでに知っている働きからいったん外し、もう一度動かしてみることを含むのかもしれない。そのとき変わるのは釘だけではない。窓も、密室も、そこから逃げられないという帰結自体が変形する。
〈針、穿孔、破裂〉と先走った像を、「挿」の一字が〈針、内部への進入、膜の変形〉へつなぎ直す。ここまでの読解は、いったん破裂まで見たあとで、同じ句に負荷をかけ、割れないところまで読み返すという二度の運動をしている。だが、この二度目は、平らだった句面をあとから折る第二の操作なのだろうか。最初に滑らかな面がありそれを事後的に折り返すわけではない。襞はすでに句の面に存在している。「挿」も最初からそこにあった。二度目の読みは、句に別の折り目を付け加えるというよりも、最初の読みがほとんど無傷で通過してしまったその折れ目へ、もう一度針を通す。二度目であるのは読む時間においてであって、句に対して二次的だからではない。
この「二度」読むこと、その像を見えるものにしていた連結そのものを読み返すこと、見ることをやめるのではなく、同じ像のなかで、見ることの優位を読むことの優位へ交代させること、見間違いのままで止まらないこと。これらは、私の勝手な読みなのか? この句に固有の要求なのか? 現代川柳というジャンルが私に課すパフォーマンスなのか?
川柳〈の〉光景は、鮮明な一枚絵が出来上がることだけではないのではないか、と私ササキリはしばらく考え続けている。まずコードによってほとんど瞬時に立つ早い光景があり、語や助詞へ遅れて引っかかることで、よりしつこく読むことで、同じ句面に別の関係が縫い込まれてゆく遅い光景がある。この二つの速度が同じ短い句面に同居することは、この短すぎる詩型の特徴なのではないか。
水風船の膜の一点を押すとその一点だけが独立して変形するわけでもなく、内側の水の圧力と膜全体の張りによって局所的な変形は周囲へ伝わり球全体の形にかかわる。「挿」という一字に少し遅れて囚われ、針の運動が変わり、水風船の時間を変え、水の働きを別用に捉え、「誰?」のあり方まで変えてゆく。一語により生じた変形を、句の別の場所まで伝えてしまう膜の薄さ。語どうしは説明し合うというより、互いの縄張りへ入り込み、互いにその働きを変えていくこの狭さ。
「挿さってゆく」という進行中の出来事全体が、最後の「水風船」にかかっている。針の運動は完了していないが、その運動を含んだものとして水風船は一つの光景を作る。個別の出来事は終わっていないが、出来事を含んだ光景は成立している。「挿さってゆく」の途中そのものが、水風船の現在の形になる。この、途中を途中のまま一つの光景にしてしまうことを、川合大祐に固有の描写の技法と呼ぶべきなのだろうか。「誰?」はもはや世界の外から答えを要求せず、問いが世界を捕らえるのか、世界の方が問いを捕らえるのか、その向きさえ定まらないまま、針として挿さってゆく。
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「ゲームについての理論と、これこそ丸ごと読み返すべきものだが、「謎かけ、判じ物、判読不可能な刻字に夢中」になる「分析家」の称賛とから始まる『モルグ街の殺人』の場合と同様に、襞をあつかう際は、「あるものを否定すること、そして、あらぬものを説明すること」という、この短編小説の最後の引用をずらしながら操作することが重要だ。エドガー・ポーのことを、「有無を言わせぬ文学上の事例」とマラルメは語っていた。これはまた、見たところ、「〈書物〉」のための草稿群のなかに現れる唯一の固有名である。」(デリダ「二重の会」、『散種』の邦訳365頁)、「しかしモナドが、共可能的でないもろもろの世界に属して発散する系列に結ばれるときには、また別の条件が消滅するのである。いくつかの世界にまたがっていたモナドが、まるでペンチで半開きにされたかのようである。世界は今や発散する系列(カオスモス)によって構成されており、骰子の一擲が〈完全なもの〉の働きにとってかわるかぎり、モナドはもはや、投影によって変化しうる閉じた円環のようなものの中に世界全体を包摂することはできず、ますます中心から遠ざかって膨張する軌道や螺旋の上に開かれる。」(ドゥルーズ『襞』の邦訳237頁)、「マラルメは、言説がそれ自体で綴られていくような〈書物〉の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである。 [......] 言語とは何か? 記号とは何か? 世界のなかで、われわれの身振りのなかで、われわれの行為の描きだす謎めいた紋章全体のなかで、われわれの夢と病気のなかで、無言であるところのもの─そうしたものすべてははたして語っているのか?」(フーコー『言葉と物』の邦訳325頁、且つ、『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』の第五章「言葉と物」の銘文でもある。ただし「言語とは何か?」から始まる箇所のみが引用され、マラルメは隠されている)。」
川合の句は、このポーの分析家の様々なものを「フーダニット」の一語に折り畳んでいるように思える。行為者を探す問いだけが句頭に残され、その問いが「の」によって針へ付着し、出来事の方からは人間的な行為者が消えている。Who did it? が答えを要求する文であるよりもwhodunit という名詞であり、さらにカタカナという日本語であり、一本の針の性質である。「誰?」が貴方へ向かわず、物になる。「誰が語るのか?」誰がこの句の水風船を作り誰が針を進めるのか。現実の針には存在しない文字上の差が針の運動を変え、その運動が水風船の変形する。フーコーがニーチェに「誰が語るのか?」と問い、マラルメに語っているのは語の意味ではなく、謎めいた語の存在そのものだと答えさせるとき、語は透明な伝達手段から、紙上に置かれた「細く物質的な黒い線」へ戻されている。
フーダニットのゲームは変わっている。「誰?」という空所は最後に犯人によって満たされ、散らばっていた痕跡は一つの解決へ収斂する。ドゥルーズがライプニッツのゲームについて言う〈完全なものplein〉のゲームは、空所を追い払う排除のゲーム、世界を原理によって充足させるゲームだ。だが、骰子の一擲(マラルメ)がゲームを入れ替えたとき、世界は一つの原理のもとで閉じることをやめ、互いに共可能ではなかった系列まで同じ世界のなかで発散しはじめる。モナドは「半開き」にされ、世界全体を一つの円環へ包摂できなくなる。〈水風船〉に少なくとも半分になる光景を見ること。「フーダニットの針」により〈穿孔―破裂―流出〉する世界と、〈侵入―変形―持続〉する世界とが同じ世界から発散すること。
〈フーダニット〉は、痕跡を一つの犯人へ収斂させるゲームであると同時に、針として世界の内部へ入り込み、その世界を一つの解へ閉じられなくする。句が複数の意味を許すのではなく、句そのものが世界を発散させる。ポーの分析家が「謎かけ、判じ物、判読不可能な刻字」(なお、新潮文庫の訳では「謎であり難問であり暗号」とされるが、象形文字hieroglyphicは言葉と物の暗号だ)を愛したように、分析とは一つの隠された答えを回収することより先に、自明だった世界を、もう一度読まなければならない形へ変えること、これを愛すること。愛してもいいだろうか。