SENRYU REVIEW

それいゆるうぺ

「蜂」会員による一句評を掲載しています。毎日更新。

茗荷茗荷茗荷大葉ばばあ逝く

榊陽子『うらぽて Ura-Potato salad』(私家版、2021年)

 ばばあが逝った瞬間に「おばあさん」などと呼び始めるのは偽善であり、死者は生前のように弔わなければならない。しかしそれでもまだ「おばあさん」よりは「おばば」と呼ぶほうが相応しいとおもうのは、句のなかに「大葉」というものがあり、ばばあからおばばへの道筋がおおばによって用意されているにも関わらず、それでも「ばばあ」と呼ぶほどの誠実さがこの句にはある。そういうわけで、「茗荷茗荷茗荷大葉」を「ばばあ」の名前であると考えたとき、やはりどこが苗字でどこが名前なのか分からない、ということが起こり得る。たくさんの茗荷が地形を作り、それが茗荷谷という苗字の象形になったのか。それもいいだろう。茗荷の「茗」にも名前の「名」が隠されているわけだが、茗荷は赤い、たくさんの茗荷からたくさんの血液を連想するのは容易い、痛くない死に方だとよいと、わたしは願う、いや、ばばあの棺に一緒に入れられたものが茗荷や大葉なのかもしれない。それは、ばばあの生前がどのようなものであったか想像させるアイテムだ。さて、榊陽子『うらぽて』は、石田柊馬の句集『ポテトサラダ』(Kon-tiki、2002年)の「うら」側で変奏する句集だということを、べつにこれまで隠していたわけではないが、伝えなければならない。掲句が裏ならば、その表側になるのは、

 大慈大悲大慈大悲ばばあ逝く
 /石田柊馬

 なのですけど、榊句の茗荷や大葉にあたる、柊馬の「大慈大悲大慈大悲」は、「ばばあ逝く」の感情と直接的に接続しており、その分かりやすさに驚く。茗荷や大葉がこんなに分からないなんてと、さらに驚く。では、茗荷や大葉は「ばばあ逝く」についての感情の塊が物体にかたちを変えたものなのだろうか。しかも、茗荷や大葉の食べ過ぎがばばあの死因の可能性も捨てきれない。茗荷や大葉はばばあのものでもあり、わたしたち読者のものでもある。まるで感情でもあり物質でもあるような茗荷や大葉を感知してしまったら、わたしたちも誠実にばばあと呼ぶしか方法がない。

 じじばばの折り曲げやすき祭りかな

 戦死者になれない僕は蝉だから

 キミガョと啼いて千年立ち眩む

榊陽子『うらぽて Ura-Potato salad』(私家版、2021年)より。