体内の水を揺らさず立ちあがる
畑美樹『畑美樹集 セレクション柳人12』(邑書林、2005年)
飲んだばかりの胃の中の水のはなしをしているとおもえば話は単純だが(ほんとうに単純なのか)、「体内」といううつわの大きさ(それは決して胃ではない)、「揺らさず」という意思の強さ(意思なのか)、「立ちあがる」という動き(垂直の運動だ)をおもうと、そう読んで終わりにできる気がしない、というか、初読の直感に反している。語彙は平易で日常的だが、あまりにもミクロな視線が遠近法的な視覚とはちがい、幻視的な様子をおもわせる。
たちあがると、鬼である
/中村冨二(『千句集』、ナカトミ書房、1981年)
冨二の「たちあがると、鬼である」は、たちあがるまではその姿を認識できない。しかし、たちあがったところを見ると、「鬼」であった。「たちあがると」という初句六音の破調が五七五定型という不透明なベールに手をかけ、つぎに期待される七五という定型の雰囲気を引き裂いて「鬼である」という五音があらわれる。この破調は、そのように句のなかに突然あらわれる「鬼」の大きさを担保する。障子のむこうに大きなものの影が見えており、勇気を出してそれを左右に、一気にひらいてみると鬼が姿をあらわした、というような句なのだ。一方、掲句は完全に定型の範囲におさまっている。実際、体内の水を揺らさずに立ち上がってみようとしたとき、具体的にはこの句の立ち姿のように、寸分たがわない正確さで、まっすぐ立ち上がるのがいいだろう。なみなみ水の入ったガラスのコップを机からゆっくり持ち上げるように、大きな容れ物となったわたしはゆっくりと垂直にたちあがる。しかし、体内をめぐる水は揺れるとか揺れないとか、そもそもそういう問題ではないのかもしれない、その不可能性をおもう、反対に、身体のことを忘れてしまうのがいい。感覚が鋭くなると、意識は幽体離脱したように身体のことを忘れる。集中して、いつのまにか何時間も経ってしまうとき、意識が空白のようになって、「立ちあがる」というより、わたしがいつのまにか「立ちあがってしまう」ようなとき、おそらく体内の水は表層の意識とともに凪いでいる。冨二の「立ち上がる」がゴジラ映画だとすれば、畑の「立ち上がる」はサイレント映画のようにみえる。その迫力は勝るとも劣らないだろう。
かがやいてうつむいている竹のざる
一本の水を買う正確な姿勢
明るくなるのにじゅうぶんな曲がり角
畑美樹『畑美樹集 セレクション柳人12』(邑書林、2005年)より。