二〇〇〇年まだ片づかぬ轢死体
尾藤三柳(『俳句現代』2000年6月号 角川春樹事務所)
轢死体を直視したことはありませんが、それは引き裂かれてばらばらになっているでしょう。自殺か他殺か事故であるかはわかりません。ただ片づけは誰かがしなければなりません。それがなされていないというのです。
死体を放置しているのは誰でしょう。家族か、行政や国家、犯罪者でしょうか。おそらくそれらすべてのことを指しているような解釈が可能です。「二〇〇〇年」もただ西暦を指しているのみならず、二〇〇〇年という時間の経過の最中、あるいは後であろうと片づかぬ轢死体はそのままだろうというアイロニーが読み取れます。
句は、書かれていないことを無理やり読み込む必要は特にないのですが、時間が経てば土に還るはずの死体が片づかぬと書かれてあれば、片づかぬものの正体を考えずにはいられません。そして二〇〇〇年の絶望。
この句は2000年発行の雑誌に掲載されました。すでに景気は悪くなっていたのですが私の記憶では今ほど世の中は荒れておらず、空気も暗くなかったと思います(当然ですがこの感覚の記憶は世代によって差異があるでしょう。作者は当時70代でしたから私の印象とは違っていたかもしれません)。
当時、マスコミはじめ世間は20世紀が終わり21世紀を迎えることについて“ミレニアム”という冠をつけて大袈裟なくらい祝祭感を演出していました。
三柳の提出した句群は、今読み返すとその時代の空気に対しての反応としてまっとうな時事吟であったと感じます。
同じ頁に掲載された句(全部で10句、題は「無題」。)には以下のようなものもあります。
壊れた指でジャンケンをしてみる
壊れた指のジャンケンで勝負をすることはできるのでしょうか。誰からも相手にすらされないかもしれません。最初から勝負にもならない状態です。壊れた指を文字通りに受け止めようとする時、自分の中でぐにゃりと形を変える概念があり、果たして私の指は壊れていないと言い切れるのだろうかと不安になるのです。